「車椅子バスケットボールと出会って」
         
県障害者スポーツ協会 増子恵美さん

 三春町という自然がいっぱいの環境で、のびのびと野山を駆け巡って育った。父は駅伝、母はボウリング、姉はなぜか運動が苦手で、兄は日大東北の柔道部で全国大会に出場、春夏は甲子園に熱中し、夜のテレビはプロ野球かプロレスという、スポーツ好きのどこにでもあるごく普通の家庭に生まれた。私も走ることが好きで、保育園の頃は足が速く、運動会では父、母、伯母の前で速く走ることが誇らしかった。地にしっかり足を着け、真っ赤なほっぺに日に焼けた肌、骨太で丸々とした明るく逞しい子供だった。
小学校に入学し間もなく、教師の体罰によって私を含め数人の生徒が不登校となった。当然勉強も遅れ、小学校低学年で習得するはずの勉強はまったく覚えることができなかった。私にとって学校と先生は恐怖の対象であり、質問に答えることのできない「だめな生徒」に対し、先生は暴力を振るうものであると認識させた。
そんな私に小学3年生のときに転機が訪れる。新任で赴任してきたその先生は、心身ともに弱くなっていた私に、体育をとおして再び身体を動かすことの楽しさや生きることの大切さを教えてくれた。その先生が教えてくれた数々のスポーツのなかにバスケットボールがあった。小学5年生のときに先生が顧問を務めるミニバスのスポ少に入った。これが私のバスケットボール人生の始まりである。
また、5年生のときには、バスケットボールに加え、勉強することの楽しさを教えてくれた先生との出会いもあり、次第に性格も活発となり子供らしくなってきたように思う。まさに、この2人の先生に出会うことがなかったら、私は人を信頼することや学び習得することの楽しさを知らずに育っていたに違いない。
以後、中学では1年生からユニフォームをいただきベンチに入り、郡大会では3年間ライバルの小野中と熾烈な優勝争いを繰り返し、最後に郡を制し、十数年ぶりに県中大会に出場し、1回戦突破という快挙!?を成し遂げ、2回戦で須賀川に大敗するという、青春時代にすばらしい経験をさせていただいた。バスケ部の顧問の先生は、車椅子バスケットボールに取り組むいまもなお応援をしてくださっている。その後も高校の途中までバスケットボールに熱中した。

平成元年(1988年)19歳のときに交通事故に遭う。生涯を車椅子での生活になる重い障害を負うことになった。辛く、苦しい日々が続いた。私は病室の天井を見つめ自分の人生を思い返していた。
他人によって心身を傷つけられたとしても、人は苦しみで発生した負のエネルギーを、その苦しみを超えるためのエネルギーに変えることもできるはずだと結論づけた。
また、運命に抗うことなく生きていれば、その傷を癒し、支えてくれる人も必ず傍に現れるはずだと思った。このときと、いままでがそうであったように。

平成3年(1991年)に退院し、平成4年(1992年)に車椅子バスケットボールと出会った。走れないバスケットボールが楽しいのだろうか?体育館に響くバッシュの擦れる音の変わりに、タイヤのブレーキ音、接触で起こる金属音と焦げた臭い。バスケットボールの楽しさは十分に知っていたが、なかなかやる気が起きなかった。
しかし、折しもこの時期は、平成7年に開催される「第31回全国身体障害者スポーツ大会うつくしまふくしま」に向け、現在私が勤務している(財)福島県障害者スポーツ協会の前身である「福島県身体障害者スポーツ協会」が設立され、選手の発掘・育成事業をはじめた時期であった。この選手育成強化事業に、東京より車椅子バスケットボール指導の第一人者、バルセロナパラリンピック女子車椅子バスケットボールの監督であった三村一郎先生が講師として招かれた。この出会いをきっかけに、さらなる転機が訪れ、私の車椅子バスケットボールの競技生活がはじまった。
 翌年から全日本の合宿に召集された。数々の強化合宿のなかで、練習以外に代表としての自覚、障害に対する知識、障害があるからというできないという甘んじた気持ちを持たないなど、数々の指導を受けた。さらに当然ながら練習は厳しく、朝から晩まで練習し、新人は、お茶当番はもちろん、洗濯当番、お風呂も最後、ミーティングに間に合うように落ち着いてお風呂に入ることもできず、先輩より先に寝れず、合宿中は筋肉痛と睡眠不足と緊張の連続であった。
平成6年(1994年)にイギリスで開催された世界選手権でデビューし、全日本史上最悪の成績を収めた。この史上最悪の成績が強さを求め、世界へ挑戦する第一歩となった。この後、数々の国際大会を経験していくことになる。
平成10年(1998年)にオーストラリアで開催された世界選手権で4位となったことで、私たちは近い将来メダルを取ることを確信した。しかし、それには自分にもチームにも足りないものがあるように思えた。それを補わなければメダルは取れないと考えていた。その何かが漠然としていてわからず模索していたとき、アトランタオリンピックバスケットボール日本代表の萩原美樹子選手のテレビ放送を見た。この放送を見て「これだ!」と直感した。すぐに福島大学の白石豊先生に電話をし、研究室を訪ねた。そして、女子車椅子バスケットボールの現状を聞いていただき、シドニーパラリンピック半年前、白石先生と萩原さんに大阪で実施された合宿に来ていただき、メダルへ向けてメンタルトレーニングの実践による具体的な目標設定とそれに向けてのプロセスについてご指導いただいた。
 これを機に、チームは当時のヘッドコーチを中心にチームのビジョン、対戦相手のスカウティングなど、選手とコーチ、選手同志がよく話しをし、具体的な目標を定める結果に到った。私たちの目標は「銅メダル」となった。
そして、次にヘッドコーチは「メンタルトレーニングの実践」を教科書に、目標に対する実践をイメージしやすくするため、プロセスの細分化をし、少しずつ修正を加えながら具現化していった。半年という短い期間でメダルが取れるチームに進化しようと努力をした。実践してきた成果は確実に現れ、パラリンピック一ヶ月前にアメリカで開催されたルーズベルトカップで、過去に一度も勝ったことのないオランダやオーストラリアを破る結果となった。私はこの3位決定戦で、残り3秒で逆転のゴールを決めた。これが決勝点となり3位となった。これはいま思い出しても鳥肌が立つ。
そして、翌月のシドニーパラリンピックでの上村の活躍は、アトランタオリンピックでの萩原選手を彷彿とさせるゾーン状態であったし、コートに出ている5人すべてが、それぞれの役割においてゾーン状態に入っていた。見えていなくてもチームのメンバーの動きがわかるのである。私たちの目標は達成され、私たちの銅メダルは金と同じ価値あるものとなった。
その後、アテネパラリンピックは、疲労骨折とスランプとの戦いだった。これは少し心身の疲労を回復するために休みなさいということなのだと考えている。いまは勉学に励み、自分の新たな可能性を求めて進化する期間だと思い、スランプという負のエネルギーをプラスのエネルギーにしたいと思っている。
いま、私を取り巻く環境とすべての人をとおして思う。私はいろんな人に導かれながら、来るべき道を進んでいると。これからも運命に逆らわず、ぼちぼちと歩み進化し続けていきたいと思う。


2000年シドニーパラリンピック 女子車椅子バスケットボール 銅メダル
2004年アテネパラリンピック日本代表 ほか