「生徒の運とわたし」

            ビクトリーコーチ(テニス)須賀川桐陽高校 千葉 信夫

 私のテニスでの優勝は、郡山高校における平成9年10月に行われた県新人戦男子団体が初です。この時は郡山と磐城・原町の三つ巴、まさに「棚ぼた」優勝であり、流れに乗って東北を抜け、全国選抜大会まで行きました。その後、次年度の「高知インターハイ」をかけた練習は厳しさを増し、特に冬場は、他の部活が終わった体育館で続けられ、夢にまで見た全国インターハイを勝ち取ったのです。

 この姿を見ていた後輩達が、今回の主役です。彼らに、今までにない何かを感じていたことは事実です。例えば「棚ぼた」優勝の時は、ポイントの差など考える余裕もない私に向かって、2勝1敗(すでに磐城に負けていた)にすればポイント差で勝ちですと言ってきました。当然、彼らにそんな指示は出してはいないのです。次に県新人戦で連覇し、東北選抜大会での準々決勝でのことです。相手は、仙台育英。ダブルスを2つ取り、シングルスであと1ポイント取れば2年連続全国選抜大会出場となるのです。そして、シングルスNo.1の対決が始まりました。あれよあれよという間に、ダブルマッチポイントも取ってしまったのです。

 しかし、そこから逆転負けを喫し、シングルスNo.2も負け、私が勝負に行ったシングルスNo.3も簡単に負けてしまいました。この大会が終わって彼らに話しました。「次行こう。岩手インターハイへ。」ただし、条件があると。それは来年の高校大会の前は地区高体連理事長として開会式の準備があり、ほとんど見てはやれないという内容のことでした。今考えると、彼らは私が話していたことや要求していたこと以上のことをやれる集団だったのです。こうして、私がいないことを想定した練習が始まりました。約7ヶ月後、郡山女子大学附属高校での開会式も無事終了し、地区高体連会長である結城勝夫先生にあいさつをしました。「ありがとうございました。私の運は使い果たしましたので、明日からの大会は期待しないでください。」と。すると「あんたのがなかったら、生徒のを使えばいい。」とすぐさま返ってきました。私の疲れきった頭では、「わかりました。」という言葉以外見つかりませんでした。

 翌日、高校大会男子団体決勝は、対原町です。「ベンチで寝たらごめんな」と言いながら、彼らのパフォーマンスを見ていました。すると、チェンジコートで帰ってきたシングルスNo.1の目が真っ赤です。どうしたと尋ねると「僕のムーンボールが全部アウトなんです。」「回転を多めにかけて、くさらずいこうや」と言って、隣のベンチを見ると、相手のエースの脚にけいれんが起きていることがわかりました。「おい、見てみろ。つってる。打たないで相手に打たせて一本ずつ返そう。」と声をかけました。この時のスコア−は、ダブルスが5−0、シングルスNo.1が0−3、シングルスNo.2が0−5でした。素人目で見ても絶対に相手の優勢がわかります。結果は、シングルスNo.1が6ゲーム連取して、連続出場を決めました。終わってから、「どう気持ちを切り替えたの」と本人に聞きました。「よく覚えていないんです。」という答えでした。

 「岩手インターハイ」は、ダブルスは十分に抵抗して敗れましたが、シングルスNo.1、シングルスNo.2は、力の差が歴然で試合になりませんでした。このように、連覇した生徒達は、全て高校から始めた素人チームであり、経験の短い者にとってはあまりにも厳しすぎました。しかし、「生かし育てる」ことを基本理念として、多くの方々の協力を得られる状況を作っていけば道は開けることを生徒の持っている「運」に教えられました。
 

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